バレンボイムの変化
バレンボイムの初来日は私にとって忘れられない記憶である。それは1966年10月、会場は東京文化会館でプログラムはモーツァルトの『ピアノ・ソナタ ニ長調 K.576』、ベートーヴェンの『ピアノ・ソナタ ハ短調 Op.111』、シューマンの『謝肉祭 Op.9』の3曲であった。今このプログラムを見て、24歳のバレンボイムがなぜモーツァルトとベートーヴェンの最後のピアノ・ソナタをあえて選んだのだろうと考える。ベートーヴェンのOp.111は深い精神性が求められ、一般的に20代のピアニストが演奏することはあまりない曲目である。彼はピアニストとして10年以上のキャリアがあるとはいえ、かなり大胆な選曲だと言える。だがこのプログラムには、彼が目指している音楽の世界がはっきりと現れている。彼の音楽の根底はドイツ音楽にあるということだ。このことは最初に薫陶を受けたフルトヴェングラーによるものと考えていいだろう。
当時大学生だった私は、A席に大枚1500円をはたいて1階の少し右寄りの席にいた。小柄なバレンボイムがモーツァルトのソナタを演奏しはじめてすぐに、私は不思議な興奮を感じた。それは彼のテンポ感の心地よさであった。絶妙なテンポは私に得も言われぬ恍惚感に浸らせてくれたのだ。その時以来、私にとってピアニストとしてのバレンボイムは目が離せない存在になった。
私は音楽におけるテンポというのは、ある意味その曲の命であると思っている。音符やリズムは演奏者が勝手に変えることは許されないが、テンポの設定はある程度演奏者に託されている。その例としてグレン・グールドを挙げれば納得されるだろう。逆に、バルトークの作品には何分何秒と詳細な指示がある曲もあるが。
ここからが本題なのだが、先日CLASSICA JAPANで放映されたバレンボイム70歳のコンサートを聴いていて、なんとなく違和感を覚えたのだ。
プログラムはベートーヴェンの『ピアノ協奏曲第3番』、エリオット・カーターの『ピアノとオーケストラのためのダイアローグズ』、チャイコフスキーの『ピアノ協奏曲第1番』の3曲であった。
ベートーヴェンの『ピアノ協奏曲第3番』は、ハ短調16小節の第1主題と変ホ長調8小節の第2主題がオーケストラによって奏され、フェルマータの後ピアノの第1主題がフォルテで現れる。その第1主題7小節目のトリルでリズムが大きく崩れるのだ。許容範囲を超えるほど長い。そして9、11小節で三連符の分散和音の上に現れるメロディのタイ(連音)の音がどう聴いても短かすぎるのだ。この部分は完全にピアノのソロなのでオーケストラとの不一致はなかったが、今まで聴いていたバレンボイムとは何かが違う。あんなに素晴らしいテンポ感の持ち主に何が起こったのだろうと一瞬自分の耳を疑い、何度か聴き直したが聴き間違いではなかった。再現部ではこの部分はオーケストラが奏するので再確認することはできなかった。内田光子、リヒテルなど何人かの演奏を聴いてみたが、誰もここの部分でテンポは動いていなかった。
さあ弾こうとバレンボイムがピアノに向かった途端、客席と楽団員からおこったハッピーバースデイの歌声が、バレンボイムを動揺させたのだろうか。あり得ないことだとは思うが…。その後の演奏は順調であった。
エリオット・カーターの『ピアノとオーケストラのためのダイアローグズ』では、バレンボイムが楽譜を置いて弾くのを初めて見た。300曲ものレパートリーを暗譜していると言われるが、この曲はさすがに暗譜のレパートリーには入らなかったようだ。カーターは2012年に103歳で亡くなったアメリカの作曲家である。パリで作曲をナディア・ブーランジェに師事しているが、バレンボイムが師事した数少ない先生の一人がブーランジェであることと選曲に関係があるのかもしれない。この曲は2003年に作曲された5分ほどの短い曲である。
最後の曲は、チャイコフスキーの『ピアノ協奏曲第1番』。若い頃のバレンボイムはどんな難曲も事も無げにバリバリと弾きこなすという印象だったが、リストの『巡礼の年』を弾いていた頃からより抒情的な表現に変わっていったように思う。今回のチャイコフスキーも同様で、若い頃のアルゲリッチが33分で弾いているのに対しバレンボイムの演奏は38分である。年齢も無関係ではないだろうが、弱音で歌うところなど、思い入れたっぷりに、情感豊かな旋律を奏でていた。バレンボイムの心の動きに呼応するようなテンポの揺れは随所に見られたが、それは後期ロマン派の音楽としての許容範囲を超えるものではなかった。それでいてクライマックスでは70歳とは思えない迫力ある演奏であった。
演奏家は年齢とともに音楽的な解釈は深まっていくが、残念なことに技術的な面の衰えは避けることができない。しかし自ら音を出さない指揮者は晩年になっても素晴らしい演奏を残している。プレヴィンやレヴァインのように座って指揮をする人もいる。バレンボイムはそろそろ指揮に専念するのかと思ったらいやいやどうして、2014年のスケジュールにもソロ・リサイタルやブラームスの協奏曲などが組み込まれている。
私が一瞬感じた不安など「そんな些細なことより、曲全体をどう解釈しそれを聴き手にどう
伝えるかそれが一番大切なことだ」と一笑に付されてしまうのだろう。YouTubeで唯一見つけたベートーヴェンの3番の演奏を聴くと、この部分にはやはり若干のテンポの揺れがあった。
Beethoven's 3rd Piano Concert in C minor, Op. 37- Piano: Daniel Barenboim - Det Kongelige kapel Conductor: Michael Schønwandt.© Danmarks Radio
ピアニストとしてのソリストの立場とオーケストラの指揮者としての音楽表現上の大きな違いの一つとして、指揮者は常にアンサンブルの中心にいるため自由なアゴーギク(テンポやリズムの意図的な変化)は許されない。バレンボイムはスカラ座でイタリアのオペラを振ることによって、ドイツ的な厳格さから解放され、イタリア的なルーズといっては言い過ぎかもしれないが、とてつもなく自由な音楽の世界に身を置き、感じるものがあったのだろうか。
バレンボイムのテンポに大なり小なりの揺らぎが現れるのは、ソロの部分に限られている。ということは、円熟の境地に達した巨匠の、テンポという縛りから解放された、ささやかな心の遊びと解釈すればいいのだろうか。オペラのアリアなどでは、いくらでも見られることなのだから…。
それにしても出ずっぱりで3曲弾き通す体力には脱帽である。最後に女性楽団員一人一人
から真紅のバラをプレゼントされて、ちょっとはにかんだような笑顔でハグしている姿は印象的だった。演奏はベルリン・フィル、指揮はズービン・メータである。
客席にはネトレプコ、ワルトラウト・マイアー、ブーレーズなど錚々たるメンバーが並んでいた。ブーレーズは「去年私とリストの協奏曲を演奏したのに、今回は何でメータなのだ」と拗ねたような表情にも見えたのは気のせいか?

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category - オペラ