国内レジ―テアターの賛否
広上淳一指揮、河瀬直美演出の《トスカ》のチラシを見つけた。広上はあまりオペラを振らないし、河瀬もおそらくオペラ初演出に違いない。どんなキャストを組んだのだろうとチラシを見て、びっくり。キャストより、そのネーミングに驚いたのだ。トス香、カバラ導師・万里生、須賀ルピオ…。このネーミング、2015年井上道義指揮、野田秀樹演出、《フィガロの結婚 ―庭師は見た―》と同じ発想ではないか。フィガ朗、スザ女、バルト朗、ただし伯爵、伯爵夫人、ケルビーノはそのまま。主催は共に東京芸術劇場シアターオペラである。《トスカ》はまだ上演されていないので、内容については何ともいえないが、明らかに二番煎じの感は免れない。舞台は古代日本だそうだが、河瀬には、自身の初演出なのだから、全くオリジナルなアイディアを期待したかった。トスカを村娘にしてしまうと、プリマドンナとしてのプライドはどこへいってしまうのだろう。観る前に不安の方が強い。
《トスカ》のチラシを見て、以前に録画したままになっていた井上と野田の《フィガロ》を観なくてはという気になった。野田の得意のリメイクで舞台は黒船来航の頃の長崎、伯爵、伯爵夫人、ケルビーノは領事夫妻とその連れということらしい。だから外国語しか話せない。その他の人物はバイリンガルということで、日本語とイタリア語が目まぐるしく入れ替わる。井上によれば、オペラが初めての人にもわかりやすいということらしいが、見慣れている者にとっては、今何語で歌っているのだろうと余計なことに神経を使わなくてはならないのが煩わしい。オペラは本来原語上演すべきだと思う。作曲者がテキストに音をつける際には、その言語が持つイントネーションを考慮してメロディやリズムを選択しているのだから。
レチタティーヴォのほとんどを、語り役の庭師アントニ男の台詞に置き換えたため、その分いくらか時間的には短くなった。ケルビーノを男性(カウンター・テノール)にすることで、井上はかねがね感じていた違和感が解消したと言っている。だがそうだろうか? 劇中でケルビーノを女装させる際に、スザンナと体型がほとんど変わらないからという台詞は、完全に無視されてしまうわけだ。私はズボン役に何の違和感もない。今回のマルテン・エンゲルチェズはかなり大柄で、女装しても、まるでスザンナには見えない。かえって違和感があった。話が横道にそれるが、井上は《ばらの騎士》のオクタヴィアンも男性が演じた方がいいと思っているのだろうか。幕開きのベッドシーンが生々しくなりすぎるのではないだろうか?
伯爵、伯爵夫人、ケルビーノの3人の歌手は、どの程度日本語を理解できていたのだろうか。アリアはともかく、掛け合いになると演技が非常にぎこちない。日本人歌手はいきいきと演じているだけに、そのギャップが目についた。
フィーナーレで夫人がスザンナの衣装ではなく、本来の伯爵夫人の衣装で出てくるのだが、これでは伯爵が、今までスザンナだと思って口説いていた相手が、実はスザンナではなかったのだと気づくだろうか。また最後に夫人が銃を発砲するが、その意味は何なのかが観客に伝わらない。野田はこれをただの喜劇として終わらせたくないと語っているが、銃を発砲することで、伯爵が“Perdono「許してください」”と何度唱えようと、夫人のこころの痛みは消え去ることがないと言いたいのだろうか。
面白い試みではあるが、いわゆるオペラ・ファンには馴染めない部分が多かったのでは?
会場には野田のファン、即ち演劇ファンが多かったようで、彼らには受けがよかったようだ。だが、フィガ朗が伯爵と愛をささやいているスザ女を許せないと見得を切るところなど、まるで時代劇。そのほかにもドタバタ喜劇風の演出があったり、モーツァルトの音楽が持つ気品が損なわれてしまったように感じられた。
このような和洋折衷の上演で成功した例として、《ジャパン・オルフェオ》を挙げたい。モンテヴェルディのオペラ《オルフェオ》と能、雅楽、日本舞踏が融合した舞台は、格式高いものであった。悲劇であるか喜劇であるかの問題ではなく、作品に向き合う姿勢の問題ではないだろうか。
オペラの敷居を下げるための試みとしての「庭師は見た」は、諸手を挙げて賛成とは言いかねる。
広上淳一指揮、河瀬直美演出の《トスカ》が前車の轍を踏まないことを祈る。

にほんブログ村

スポンサーサイト
category - オペラ